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蒐める楽しさが持つもう一つのこと

ささやかな物でも蒐める楽しさに嵌ると、その楽しさはどんどん大きくなる。

 蒐めた物を一つ一つ深く見る、(私はルーペを四種類使っている)何時でも取り出して眺められる事でさまざまな角度から鑑賞し素材や技をあれこれ調べる。時には思わぬ発見がある。作者はどんな人だったのだろう、辿ってきた道のりは。巡りめぐってよくぞ私の手許へと思うと感慨一入である。友や家族と一緒に鑑賞し語り継ぎ日本の伝統工芸の僅かな一端でも伝える事が出来ればと思っている。

 こんな楽しみに知らず識らずに嵌っていた私に高橋氏の一文は非常に新鮮だった。

 

 私の蒐めた物など、とてもコレクション等と言える物ではない。夫はサラリーマン、市井の老年期を迎えた一介の女性が二十余年かかって蒐めたささやかな品々である事を充分承知している。          

 村上 清子 2005.8

 

  「岡崎智予コレクション  櫛かんざし」 より  岡崎智予  紫紅社刊

 

     岡崎さんのこと   高 橋 睦 郎

 

 櫛というものについて、女のひとが結髪に用いるものだという常識的な理解以外に、とりたてて関心はなかったから、岡崎智予さんにひき合わされて、櫛かんざしのコレクターですと紹介されても、特別の感興はなかった。

 

 岡崎さんを再認識、いや、はじめて認識したのは、資生堂のザ・ギンザで岡崎さんのコレクションの一部が披露されたときである。硝子ケースの中に並んだ岡崎さん鍾愛の櫛、笄、かんざしたちにじっさいに対面して、私は文字どおり目を瞠った。そこにある美しいものの数数が単なるものというより、生きものと感じられたからである。

 

 私はもともと蒐集ということに偏見を持っている人間である。好色という言葉にも似た淫靡さを覚えて、好きではない。しかし、私の対面した岡崎さんの櫛たちは、そんな不気味さをいささかも感じさせなかった。幾日か経つて、あれは単なる蒐集とか保存とかいうものではなくて、再生、ごくひかえめに言っても再現と呼ぶべきものではないか、と思った。

 

 たとえば、古い室内楽のスコアを卓れた演奏家がとりあげて、再現して私たちに示してくれるように、岡崎さんも私たちの知らない櫛たちの美を再現して、私たちに示してくれているのではないか。そんな演奏家のことを私たちは再現芸術家と呼ぶ。同じように岡崎さんを櫛の美の再現芸術家と呼んでもいいのではないか、と思った。

 

 こういう私の岡崎智予観は、その後何度か会うにつれて、いっそう強いものになっていった。岡崎さんの櫛たちに寄せる、ときには執念とさえ言える愛情が、日ましに重く感じられてきたからである。ひとりの芸術家が彼の芸術のために生きているのと、岡崎さんが櫛のために生きているのと、どちらが激しく真剣か。ひょっとしたら、芸術家は岡崎さんに学ばなければならないのではないか、とも思う。

 

 そういう人をしも真の蒐集家と言い、コレクターと呼ぶというのであれば、もちろん私の偏見は改まらざるをえないだろう。

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© KIYOKO M..2000:2005年8月11日 更新